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この人は、何かにじっと耐えているのだろうか。それとも、怒っているのだろうか。いや、深い悲しみにくれ、俯き、むせび泣いているようにも見える。肩をいからせ、腕に筋を立て、渾身の力を込めて黒い二本の紐を握り締めている。紐は腕にぐるぐると巻きつき、周囲は痛々しく赤むけしている。まるで、この黒い紐の運命的な呪縛から永遠に逃れられないかのようだ。ただ、血のように赤いリボンだけが、じっとまっすぐ前を見つめている。
『傷ましき腕』は、パリ時代、25歳の時に描かれた岡本太郎の代表作。モデルは「岡本太郎自身」という説が有力です。この作品で、象徴的に描かれる「リボン」は、岡本太郎がパリ時代に繰り返し描いたモチーフ。一体、このリボンは何を表しているのでしょうか。
「リボン」の解釈は諸説ありますが、ここではこの真っ赤なリボンを、颯爽とした生命力、何かに立ち向かう強い意思を象徴するものと解釈しましょう。痛々しく巻きつく黒い紐の痛みに耐える姿は、人間の根源的な孤独や悲しみ、怒り、苦しみを象徴しています。しかし、この痛みから逃げようとはせず、むしろ、この痛みを自らのものとして受け入れようとしています。ここには、「痛み」「苦しみ」「孤独」という自らが抱える「負」の存在を見て見ぬふりするのではなく、それを真正面から見据え、自覚し、受け入れることによってこそ、逆に生まれてくる鮮烈な生命力が満ち溢れています。この勇ましい生命力の象徴となるのが、岡本太郎が若き日に繰り返し描いた真っ赤なリボンなのです。「逃げない、はればれと立ち向かう」という彼のモットーは、この作品に体現されています。 |
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猛々しい感情に取り付かれたかのような不気味な樹木が幹を伸ばす暗黒の森の中に、一人の女性が颯爽と立つ。女と視線を合わせるのは樹木の幹から半分顔を覗かせる髑髏。純潔の象徴であるかのような真っ白いドレスをまとった女は、一見、不動の神聖さで現前するおどろおどろしい世界と対峙しているように思える。しかし、この世界で彼女が正気を保つことができるのは、背中に隠し持つ鋭く長い牙を持つナイフという凶器の支えがあるからなのかもしれない。
戦後初期を代表するこの作品は、岡本かの子の遺作『生々流転』の装丁を原形として制作されました。また、花田清輝や植谷雄高らによる前衛芸術の研究会「夜の会」の名前は、この作品名『夜』から採られたことでも有名です。
白いドレスの女性は、ナイフを片手に髑髏に向かっていくのか、それとも、不気味な森の闇に飲み込まれてしまうのか…。『夜』は、今後の展開を様々に予感させる文学的な魅力をもった作品です。“可憐な女性”と“凶暴な刃物”というアンバランスな取り合わせは、見るものをドキリとさせます。それにしても、美しい女性に凶器を握らせる画家の心理とはいかなるものだったのでしょう。もしかしたらこの女性は、戦後の日本社会で、あえて己の筋を貫き「ノー」といって、立ち向かっていく岡本太郎自身の姿なのかもしれません。 |
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『森の掟』は、『重工業』と並んで岡本太郎が提唱した“対極主義”を具体化した作品として有名です。
“対極主義”とは、岡本太郎が1947年頃から提唱しはじめたもので、芸術家の姿勢とは、対立する二つの要素をそのまま共存させるべきであるとする少々哲学的な主張です。たとえば「無機的な要素と有機的な要素、抽象・具象、静・動、反発・吸引、愛憎・美醜、等の対極が調和をとらず、引き裂かれた形で、猛烈な不協和音を発しながら一つの画面に共生する」(『アヴァンギャルド芸術』美術出版社、1954)ということです。その両極の要素が反発しあうことで「生々しい、酸鼻を極めた光景」が出現します。「しかしそれに怖じず、逆に勇気を持って前進し、ますます引き裂かれ行く、そこにこそアヴァンギャルド芸術家の使命がある」と彼は強調するのです。 この“対極主義”は岡本太郎の生涯を貫く芸術観となりました。 『森の掟』のチャックの怪物は、まさに、対極のものが引き裂かれることによってもたらされるエネルギーを象徴しています。“森”は、チャックの怪物の登場により、猛烈なエネルギーが渦巻き、さまざまな生き物たちはこの渦に巻き込まれ、飛び交い、なかにはこの暴れん坊の赤い怪物に食べられ、惰性的な平穏が打ち破られます。空間は今まさに、チャックの怪物によって引き裂かれ、異様な軋み声を上げてスパークしようとしているのです。この世界のありようこそが、“対極主義”、岡本太郎の追求する「アヴァンギャルド」であり、生き方だったのです。 |
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館内には、絵画作品とともに常設展示としてたくさんの彫刻作品を見ることができます。
岡本太郎の彫刻のフォルムは、どれも子供の創作のようにキュートで気取りなく、無限の空間を謳歌しています。「こんなにこの世は広いのだから、のびのびしようじゃないの。もっともっとスパークしよう!」彼の口からはこんなセリフが飛び出してきそうです。岡本太郎という人物の求めてやまなかった「マグマのように噴出するエネルギー」は、平面という規制の空間には収まりきれず、無限の空間が提供される立体芸術にこそ表現されているようにも思えます。 |
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そのあまりにも単純明快なフォルムは、時に「美しくない」とか「稚拙」だという評価もされることもありますが、岡本太郎はこう言います。「今日の芸術は、うまくあってはならない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない」 つまり、人から好かれるような芸術は価値がない、と言うのです。ですから、「美しくない」とか「稚拙」という評価は太郎にとっては望むところなのかもしれません。
岡本太郎の彫刻を見ていると、抜けるような青空を見たときのような、すかーっとした気分になり、「芸術である」とか「芸術でない」とか「美しい」とか「美しくない」とかは、どうでもよくなるのです。この開放感、自由奔放な精神、子供のような無邪気さ、鬱屈した日本社会の殻を打ち破るような突出したエネルギー、これが岡本太郎作品の魅力。これを「芸術」と呼ぶか呼ばないかは、あなた次第です。
川崎市岡本太郎美術館は、岡本太郎の魂がみなぎるスーパー啓蒙スポットです。ここでの「芸術鑑賞」とは、「癒し」という生ぬるい感情のみを創出するのではなく、人間の創造性を猛烈に刺激し、新たな創造性に導く啓蒙的な役割を果たします。どうせ自分は凡人だから何もできない、もう新しいことを始めるような年でもないし…、こんな不景気なときに何をやってもしょうがない…。何かしら理由をつけてクリエイティブな行為を押し殺している現代の私たち。戦後、ゼロ状態の日本を引っぱり勇気づけたリーダー的存在だった岡本太郎は、今再び、私たち現代人の惰性的な生き方に活を入れます。
そうか、こんなに自由でいいんだ、何だっていいんだ、もしかしたら私にも何かできるかもしれない、よし!とにかく前に進んでみよう!岡本太郎の芸術は、あらゆる常識や秩序を覆し、私たちの魂をこの広い宇宙に解放してくれます。美術館を後にするころには、誰もが内なる「岡本太郎」の存在に目覚め、パワーアップしている自分に気付くことができるでしょう。65歳以上は入館料無料という嬉しいシニア割引もあります。 |
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美術館内にはテラスのあるカフェテリア・TAROがあります。ミュージアムショップも、岡本太郎デザインの小物やポストカードが充実しています。
美術館ほど近くにある川崎市日本民家園は、美術館とセットで訪れたいオススメスポット。生田緑地は、お天気の日、お弁当片手にピクニックがてら出かけてみるのも良い。また、川崎市内の学校や公共施設では、岡本太郎のパブリックアートをたくさん見ることができます。さらに、岡本太郎を極めたければ、東京、青山の旧アトリエ兼住居、岡本太郎記念館を訪れてみるとよいでしょう。 |
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フリーアートライター。明治学院大学大学院文学研究科芸術学専攻博士課程前期修了。専門は日本近世(江戸時代)絵画。その他、古今東西の美術、また美術にとどまらず映画、演劇、音楽、文学など幅広く芸術全般にわたり、ジャンルに拘らず面白いものには接近する。最近は、心理学、精神分析、占いなどにも興味津々。
論文:「若冲についての覚書―「動植綵絵」中の4作品のルーツを探る」 (明治学院大学大学院文芸術学専攻紀要『bandaly』第1号、2002年3月) ●URL●http://www.e-rena.net |