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花岡詠二のスウィング・ジャズ講座2/スウィング・ジャズのスターたち
♪簡単なジャズ用語が解れば興味100倍♪
プレイヤー編

『グレン・ミラー物語』(DVD)/『ベニー・グッドマン物語』(DVD)  スウィング時代のスターたちといえば、たちどころにデューク・エリントンカウント・ベイシーグレン・ミラーベニー・グッドマントミー・ドーシージミー・ドーシー兄弟ウディー・ハーマンチャーリー・バーネットハリー・ジェームスフレッチャー・ヘンダーソンジミー・ランスフォードテディ・ウィルソンアーティー・ショーライオネル・ハンプトンジーン・クルーパなどを指折ることができます。
 特に、映画『グレン・ミラー物語』(1953年、ユニヴァーサル)、『ベニー・グッドマン物語』(1955年、ユニヴァーサル)、『5つの銅貨』(1959年、パラマウント、レッド・ニコルス)などは、伝記映画とはいうものの多少恋愛系、お涙系の音楽映画として、当時熱狂的に受け入れられていましたからご存知の方も多いでしょう。映画の内容は、見る方の主観によって評価は違うかもしれませんが、映画の中で繰り広げられたスウィング・ナンバーと、きらびやかなシーンの数々は、当時目を見張るほど華やかで心躍るものでした。
 映画『ベニー・グッドマン物語』は、『グレン・ミラー物語』からみると役者がやや劣る部分があります。映画の出来からいうと、グレン・ミラーの方に軍配を揚げざるを得ません。
 しかし、『ベニー・グッドマン物語』では、ジーン・クルーパライオネル・ハンプトンテディ・ウィルソンスタン・ゲッツベイブ・ラッシンハリー・ジェームスハイミー・シャーツアージギー・エルマンなど錚々たるメンバーが出演しています。内容はともかく、このメンバーの顔が見られるだけでもファンにはたまりません。ビデオ(DVD)もありますのでぜひご覧になってください。
 また伝記映画としては、『ドーシー兄弟物語』『ハリー・ジェームス物語』『ナット・キング・コール物語』『ジーン・クルーパ物語(亡くなられたジョージ川口さんはジーン・クルッパーと言っておられましたが=余談)』などが製作されました。残念ながら、日本では未公開で見ることができませんが、後年一部はTVで放映されました。

ビッグバンド・ジャズの黄金時代を築いた偉大なバンド・リーダー

グレン・ミラー・オーケストラ  まず、グレン・ミラー(1904年~44年)を紹介しましょう。映画『グレン・ミラー物語』では、ジェームス・スチュワートがグレン・ミラーを演じ、あの飄々とした演技がなんともいえない雰囲気をかもし出していました。そして、劇中流れるグレン・ミラーのメロディーが、日本人の感性にマッチして大ヒットしました。私が演奏をしているステージでもグレン・ミラーの曲を演奏すると、今でも目頭を押さえるファンの方もいるくらいです。
 グレン・ミラーは、ニューヨークのシリンガー教授に編曲を学んだ後、自分のバンドを結成し「ムーンライト・セレナーデ」「リトル・ブラウン・ジャグ」「真珠の首飾り」「セントルイス・ブルース・マーチ」など数々のヒット曲を生み出しました。グレン・ミラーのアレンジは、“キラー・ディラー・サウンド”といわれる編成によって、あの独特で甘美な演奏を生み出しているのです。
 そして、人気絶頂の1941年、空軍に入隊し“エアー・ホース・バンド”を結成し、前線の将兵慰問に尽くしました。1944年12月、パリでの演奏のためロンドンを発ちましたが、そのまま行方不明になってしまいました。現在でも機体が見つかっていないため、様々な真偽不明の噂が飛び交っています。
 このグレン・ミラーの死は、ミラーひとりが亡くなったというだけでなく、禁酒法時代から続いたスウィング時代のひとつの終焉を意味しています。亡くなってからほぼ60年経ちますが、依然根強い驚異的な人気を保っているのは、それだけ素晴らしいサウンドを生み出したグレン・ミラーの功績ともいえるでしょう。

 グレン・ミラーときたら、今度は当然ベニー・グッドマン(1909年~86年) ですね。ベニー・グッドマンは、多くのジャズ・ミュージシャンの中で、私がもっとも敬愛する人です。“キング・オブ・スウィング”とも称され、スウィング・ジャズの世界で偉大な足跡を残した巨人でもあります。映画『ベニー・グッドマン物語』で知られるように、子供の頃からクラシックに親しみ、将来を嘱望されましたが、ジャズへの道に転身して、1934年(24歳)の時に自分のバンドを結成しました。

ベニー・グッドマン

ベニー・グッドマン  ベニー・グッドマンの魅力は、子供の頃から学んだクラシックを基礎に卓越したテクニックを持って、黒人だけのものと思われていたジャズを、都会的な躍動感ある軽快でお洒落なサウンドに仕上げ、歯切れのいいスウィンギーな演奏にその特徴が現れています。
 その後1935年には、テディ・ウィルソン (p)、ジーン・クルーパ(ds)(後にライオネル・ハンプトン(vib)が加わる)とコンボ編成のバンドを組んで大変な人気を博しました。また、1938年にクラシックの殿堂である“カーネギー・ホール”に出演することによって、今まで低かったジャズの認識を新たにし、アメリカ社会でのジャズへの評価を高めるのに一役買っています。映画の中で(自身が)演奏された「メモリーズ・オブ・ユー」「グッド・バイ」「シング・シング・シング」などは、いまだにリクエストが多いです。
 グッドマンはプレイヤー、アレンジャーに黒人(テディ・ウィルソンライオネル・ハンプトンチャーリー・クリスチャンフレッチャー・ヘンダーソンなど)を多く登用し、人種の壁を取り払うなど数々の功績を残しました。とりわけ、フレッチャー・ヘンダーソンの存在は無視できません。たしか、映画では、ラジオ番組「レッツ・ダンス」(1934~35年)の出演が成功したとき、スタジオに訪ねてきて、ベニー・グッドマンにお祝いを言うシーンがありましたが、あの役を演じたのは外でもないサミー・デイビス・シニアです。
フレッチャー・ヘンダーソン  ジョージア州出身のフレッチャー・ヘンダーソンはピアニストで、ベニー・グッドマン楽団のアレンジャーとして活躍し、多くのスコアーを提供しています。また、作曲家でもあり自身でもバンドを編成し多くのジャズメンを育てたことでも有名です。ベニー・グッドマンの勉強をするとき、フレッチャー・ヘンダーソンも欠かせません。


スウィング時代に人気を博したジャズ・プレイヤーたち

デューク・エリントン/ジョニー・ホッジス  グレン・ミラーベニー・グッドマンと続きましたが、今度は黒人の本格的フルバンド(だけではありませんが)の大御所デューク・エリントン(1899年~1974年)を紹介しましょう。デューク[公爵]と呼ばれ、その名の通り、ピアニスト兼作曲家、アレンジャーとして気品に満ちた理論的な多くの作品を生み続けただけではなく、絶妙の人心掌握で偉大なバンドを育て上げました。多彩な才能と卓越した指導力は、前代未聞の長期のバンド経営を成し遂げ、また多くのジャズメンが育っていきました。
 エリントンのバンドの特徴は、離合集散の激しいこの世界で、主要なメンバーが居続けたことです。それぞれがソロプレイヤーとしての力量を持ちながら、バンドを離れなかったのは、実にエリントンの人徳によるところが大きかったのでしょう。
 そして、ハリー・カーネイジョニー・ホッジスクーティー・ウィリアムス、そしてピアニストであり編曲、作曲を手がけたビリー・ストレイトホーンなど“エリントニアンズ”によって、より高いレベルの作品を維持できたということもいえます。優れたジャズメンがいればこそですが、それをまとめてきたエリントンは、“経営者”としても超一流だったのです。
 エリントンが生涯に作・編曲した曲は1000を越すといわれ、今でも世界のジャズメンがそれらの曲を演奏しています。「A列車で行こう」「ムード・インディゴ」「スウィングしなけりゃ意味がない」など枚挙にいとまがないですね。アメリカが生んだ、アメリカを代表する最大の音楽家であるといっても過言ではありません。
 
 フルバンドのもう一方の雄といえば、野球も大好きなカウント・ベイシー(1904~84年)です。ベイシー楽団の特徴はそのリズムにあります。“オール・アメリカン・リズム・セクション”といわれたスウィングの基本である四者一体となった4リズム。その強烈なリズムと、ベイシー自身の独特な“省エネ”スタイルの音数の少ないピアノ奏法が何といっても特徴なのです。カンザス・シティーで育ったブルース色の強い、そしてリフ(リフレインの略、機械的な音の羅列)を多用した独特の“カンザス・スウィング”。「ワン・オクロック・ジャンプ」「ジャンピング・アット・ザ・ウッドサイド」などカンザス・ジャズの特徴がよく出ているナンバーがたくさんあります。

カウント・ベイシー

 前に説明しましたデューク・エリントンとのカラーの違いについていうと、私事ですが、この両巨匠にサインをもらっています。エリントンは色紙一杯に花模様。ベイシーは真中に小さくシンプルに名前が書いてあるだけ。このサインの仕方をみても、2人の持ち味が何となくイメージされて違いがおわかりいただけるでしょう。因みに、カウント・ベイシーのカウントとは〔伯爵〕という意味で、エリントンのデューク〔公爵〕と、面白い対比ですね。


ハリー・ジェームス/アーティー・ショー楽団  その他、著名なプレイヤーとしては、まず「チリビリビン」「メランコリー・ラプソディ」「スリーピー・ラグーン」などのヒットを飛ばしたハリー・ジェームス。美しい音色のトランペットで、これでもかと冴えた高音と抜群のテクニックでムーディーな演奏をするハリー・ジェームスは時代を彩るスター・プレイヤーでした。ベニー・グッドマン時代に早くも頭角を現し大スターになっています。また、ライオネル・ハンプトン(vib)、テディ・ウィルソン(p)、ジーン・クルーパ(ds)と共にコンボでも活躍しました。
 そして、ハリー・ジェームスは、フランク・シナトラを見出したことでも有名です。“ホワイト・ベイシー・バンド”とも呼ばれ、カウント・ベイシーを手本にしてダイナミックでスウィングした演奏スタイルで多くのファンを魅了しました。
 アーティー・ショーはグッドマンより多くのゴールド・ディスクを飛ばし、数々の女性と浮名を流したことでも有名です。結婚は8回とか。彼とジェリー・グレイ編曲による「ビギン・ザ・ビギン」を聴いたらスウィング・ジャズの楽しさを満喫できます。アーティー・ショーはベニー・グッドマンと当時の人気を2分しましたが、人気投票ではグッドマンに勝てませんでした。
 しかし、「ビギン・ザ・ビギン」「フレネシー」「スター・ダスト」「ダンシング・イン・ザ・ダーク」など8曲のミリオン・セラーを出しています。対するベニー・グッドマンは「スロー・ボート・トゥ・チャイナ」1曲だけですから、人気と実売を計りにかけたらどちらも甲乙つけがたいクラリネット奏者ということでしょうね。

トミー・ドーシーバンド/ジミー・ドーシー+ポールホワイマン  仲の悪さで有名だったドーシー・ブラザーストミー・ドーシー(弟)の「アイム・ゲッティング・センチメンタル・オーバー・ユウー(センチになって)」「インドの唄」「マリー」などで華麗なトロンボーンを聴かせます。
 それから、今でも記憶に残る曲としてよく演奏され、ロバート・デ・ニーロの映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』のバックで流れていた「アマポーラ」。これは兄のジミー・ドーシーボブ・エバリーヘレン・オコンネルの唄をフィチャーさせて人気を博したものです。
 2人とも卓越した技量の持ち主で、高名な指揮者アルトゥール・トスカニーニがNBC交響楽団のメンバーに「手本にしろ」と言ったくらいです。

ジミー・ドーシー楽団/ライオネル・ハンプトン  ライオネル・ハンプトンも忘れることができません。映画『ベニー・グッドマン物語』の中で、カーネギー・ホールでの演奏中グッドマンとの邂逅を思い出しながら、舌を出して首を振りふり演奏した「ムーン・グロウ」。あの場面は、思わず心が温かくなる気分にさせられました。「フライング・ホーム」「ストンピン・アット・ザ・サボイ」なども聴き逃せませんね。
 その他、テディ・ウィルソン(p)、ジーン・クルーパ(ds)、レスター・ヤング(ts)、レッド・ニコルス(cor)、バディ・リッチ(ds)、チャーリー・クリスチャン(g)など新旧取り混ぜて名前をあげることができます。

 それではこの辺で、「スウィング・ジャズのスターたち」はひとまず幕といたします。次回は【ジャズ・シンガー編】をご紹介します。

※文中の略語
(p):ピアノ (ds):ドラムス (cor):コルネット (ts):テナーサックス (g):ギター (vib):ヴィブラフォン
※出典
同朋社出版、“THE DANCE BAND ERA”CHILTON


花岡詠二(はなおか・えいじ)氏のプロフィール
1944年東京生まれ、日本大学芸術学部音楽学科卒業。わが国を代表するクラリネット・プレーヤー。1975年ディキシー・キングスに参加。現在では、ベニー・グッドマン・スタイルのスイング・コンボ「花岡詠二スヰング・オールスターズ」をメインに多彩なライブ活動を展開している。近年は海外のジャズ・フェスティバルに招聘され好評を博している。日本大学芸術学部講師も兼任。
花岡詠二HP