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東京散歩 第4回御茶ノ水編
多くの大学、専門学校が集まる学生街として知られ、さらに楽器店街、スポーツ店街、古書店街など個性的なエリアが集まる「御茶の水」。江戸時代にはこの地一帯が大名屋敷であったせいか、湯島聖堂などの史跡が点在する街でもある。今回は、日本のジャズ界を代表するアルトサックス奏者・五十嵐明要氏、バリトンサックス奏者・原田忠幸氏のおふたりに、御茶の水界隈の散策を愉しんでいただき、貴重なジャズ談義をうかがった。

今回の旅人
五十嵐  明要(いがらし・あきとし)
アルトサックス奏者。1932年、東京・八丁堀生まれ。「原信夫とシャープスアンドフラッツ」「ブルーコーツ」「小原重徳とニューオータニ・ジョイフル・オーケストラ」などビッグバンドのコンサートマスターを務める。実兄(ドラマーの故五十嵐武要氏)と自己のバンド「ざ・聞楽亭」を結成。1989年、世界で最も権威のある「アメリカ・モンタレー・ジャズ・フェスティバル」に招かれ、喝采を浴びる。その円熟味のある音色はアメリカでも“ONE AND ONLY”と称されている。現在も多岐にわたり活躍中。

原田  忠幸 (はらだ・ただゆき)
バリトンサックス奏者。1936年、京都生まれ。父親(ドラマーのジミー原田氏)や実兄(ドラマーの原田イサム氏)の影響から音楽の世界へ。「原信夫とシャープスアンドフラッツ」や「ウエストライナーズ」を経て、渡米。ロサンゼルス、ラスベガス、ハワイで活動。フランク・シナトラ、マレーネ・デートリッヒ、フォー・フレッシュメン、サミー・ディヴィスJr.など多くの海外アーティストと共演。再び日本で、自己のバンド「ザ・ハーツ」を結成。現在「前田憲男とウィンドブレーカーズ」他、多方面で活躍中。



聖橋から眺める神田川の風景は、四季折々で趣き深い。
 JR中央線御茶ノ水駅聖橋(ひじりばし)口を出て左手に行くと、白いアーチ型の“聖橋”がある。橋の下には、神田川がゆったりと流れている。神田川と言えば、かつてのフォークグループ「かぐや姫」のヒットソングでお馴染みであろう。この川はかつて平川と呼ばれ、江戸時代には水道として利用されていたという。
 春は桜、秋は紅葉が川面を染め、季節の移ろいを感じさせてくれる。また、オレンジ色の中央線、レモンイエローの総武線の電車が神田川に沿って走り抜けていく様は、眺めていてなかなか飽きることがない。
 御茶の水界隈の散策は、なんといってもこの聖橋から始めるのがいいだろう。橋を渡って湯島聖堂方面へ行くか、それとも学生で賑わいを見せるニコライ堂方面に行くか…。迷うのもまた、楽しみである。

●聖橋の下を流れる神田川
神田川を挟んで南側にある「ニコライ堂」と北側にある「湯島聖堂」の2つの聖堂を結んでいるため「聖橋」と名づけられた。
関東大震災後の震災復興橋梁の1つで、昭和2(1927)年に完成。
古(いにしえ)の歴史・文化・芸術が息づく、「御茶の水」界隈を散策する


●御茶ノ水駅前
駅前のスクランブル交差点からお茶ノ水橋へ向かうと、東京医科歯科大学、順天堂大学とその付属病院が集まっている。
 今回の旅人は、前回ご登場いただいた五十嵐明要氏とミュージシャン仲間である原田忠幸氏。御茶の水は楽器店がひしめく音楽の街としても有名だ。ご両人は迷わず、楽器店が並ぶ駿河台のほうへ歩き出した。
五十嵐 昔はよく楽器を見に来たけど、御茶の水もずいぶん変わってしまったね。ところで、この辺りはいつから「御茶の水」と呼ばれるようになったのだろう。
原田 御茶の水というくらいだから昔は水がきれいだったんでしょうね。

僕の若い時には、御茶の水と言えば「楽器の街」のイメージになっていました。よく下倉楽器店に足を運んだものです。僕はバリトンサックスを吹いていますが、昭和30年に、原信夫さんに「バリトンサックスをやらない?」と誘っていただいたのがきっかけです。当時は日本でビッグバンドにバリトンサックスを入れるというのは画期的なことでした。楽器がないものだから原さんが誰かから借りてきてくれて、最初は借り物でしたが、御茶の水にはよく楽器のパーツを買いに行きました。

●楽器店街
下倉楽器店は1937年、下倉楽器商会として創業。弦楽器、管楽器の専門店として御茶の水でスタートした。石橋楽器、谷口楽器、黒澤楽器などが次々に御茶の水で創業したことがきっかけで「御茶の水=楽器の街」というイメージが定着した。


●お茶の水地名碑
「お茶の水」の碑は、御茶ノ水駅前の交番の脇に建っている
 「御茶の水」の名の由来は、JR御茶ノ水橋口を出て、スクランブル交差点を渡った交番脇に建っている石碑に書かれている。それによれば、江戸時代慶長年間の頃、三代将軍・家光公が鷹狩りの帰りに高林寺の湧き水でお茶を立てたところ大変美味しく、将軍ご用達の「御茶の水(“御”は将軍や幕府に関連するすべての事柄に付けられた)」になったと記されている。


●大久保彦左衛門の屋敷跡碑
杏雲堂病院の一角には、屋敷跡の碑が建っている。
 さらにJR御茶ノ水駅から駿河台下の交差点に向かって、緩やかな坂を下りていく。すると、左手に杏雲堂病院の淡いベージュの建物が見えてくる。かつて、ここには徳川幕府の御意見番として知られた大久保彦左衛門の屋敷があった。彦左衛門は三河・松平家の家臣の家に生まれ、多くの兄とともに家康に従って戦で活躍し、徳川幕府の成立に大いに貢献をした人物である。しかし、平和な世が訪れると、武士よりも政治に長けた官僚が求められるようになり、不遇な扱いを受けるようになったという。後に大久保彦左衛門は、「一心
駿河台の緩やかな坂を下ると、時代がかった古書店が軒を連ねている

太助」とともに歌舞伎や講談などで取り上げられるようになり、「義侠ぎきょうの士」として多くの人の知るところとなった。
 その向かい側には明治大学の新校舎がそびえ建っている。神田駿河台は学生の街としての顔を持つ。周辺には明治大学をはじめ日本大学、各種専門学校が多く集まり、学生たちで賑わっている。さらに進むと、江戸時代には富士山が眺められたという「富士見坂」がある。その緩やかな坂を下ると大型書店や古書店がずらりと並ぶ靖国通りに出る。

●神田古書店街
周辺には大学や病院などが多いことから、大正から昭和初期にかけて古書店が軒並み開業された。
 坂の途中には本日の1軒目、「ホルモン焼肉モリちゃん(※1)」がある。赤ちょうちんがなんともいい具合にぶら下がっている。焼肉の臭いに吸い込まれる。


●焼肉ホルモン「モリちゃん」御茶ノ水店
新鮮なホルモンと極上の肉が自慢の店。
レトロな内装にしばし時を忘れる。
―お疲れさまです。まず焼肉と野菜とホルモン焼き、モツ煮込みといきますか。焼肉といえば韓国ですが、おふたりは韓国に行かれたことがありますか?

原田 僕は3回くらいかな。最後に訪れたのは1988年、ソウルオリンピックの前夜祭に開催された〝国際JAZZフェスティバル〞に出演した時でしたから、もうずいぶん前になりますね。漢江(ハンガン)の野外ステージで演奏しましたが、いつものメンバーだったのでのびのびと演奏ができました。
漢江を眺める野外ステージで演奏した〝国際JAZZフェスティバル〞


五十嵐 僕は若い頃に行ったことがあるけれど、機会があったら済州島でライブをしたいと思っている。
原田 オリンピックの前夜祭は9月中旬頃だったけれど、爽やかな夜風を頬に感じ


ながら、野外ステージで演奏するのは最高に気持ちが良かったですね。
五十嵐 観客もソウルの夜景を眺めながら、JINROのオン・ザ・ロックなんかを片手にジャズを聴けば、お酒も格別に美味しく感じられるんじゃないかな。
原田 そうそう、カップルも多かったね。
韓国ドラマもそうだけれど、韓国人はロマンチックな雰囲気が大好きなんでしょうね。
 ソウルを北と南に大きく分ける全長514キロの漢江。漢江は今も昔も変わらず、市民の暮らしに大切な資源を運ぶ大河である。と同時に、この大河は韓国人にとっては“心のふるさと”でもある。陽が落ちる頃には漢江にかかる橋がライトアップされ、ソウル市街のネオンが水面に浮かぶ。時代が変わっても、ソウルに訪れる人たちを見守るかのように、漢江は変わることなくゆったりと流れていく…。

この大河に韓国人は特別な思いを抱いている。

―韓国へ旅行するなら4月、5月、9月、10月がお勧めです。ところで、韓国では今、若い人にジャズが人気だそうですね。

五十嵐 韓国ジャズは、ある意味、ひとつのファッションになっているらしい。
原田 今、NOON(ヌーン)という名前の女性シンガーが活躍しています。大阪生まれの韓国スターです。
五十嵐 韓国系の美人だね。
原田 韓国美人ということで思い出したけれど、僕が出演したソウルオリンピック前夜祭の前日に、ソウルの某ジャズクラブで演奏したのです。お客さんの中に40代くらいの男性がいて、隣の女性は20代くらいのすごい美人でした。メンバーは演奏中も彼女ばかり見とれているものだから、演奏がガタガタになっちゃって…。言葉が通じないので彼女と話せなくて残念だったけど、翌日のコンサートにはちゃんと来てくれました。韓国女性の美しさはその時に実感しましたよ(笑)。

―ご両人が一緒にいらっしゃると美人が寄ってきますよ(笑)。


ほろ酔い気分になったご両人、「モリちゃん」を後にして裏手の路地を歩き始めた。
原田 いえいえ、五十嵐さんの済州島ライブツアーの折にでも、韓国で整形をしてきますか(笑)。


●漱石記念碑
明治7(1874)年創立。「明治11年夏目漱石錦華に学ぶ」と記されている。
 神保町の靖国通りの裏手に、明治7(1874)年創立のお茶の水小学校(旧錦華小学校)がある。ここは、夏目漱石が学んだ小学校である。
「我輩は猫である名前はまだ無い」と小説の冒頭文が記された夏目漱石の記念碑が建っている。この小学校脇の錦華坂を上がっていくと、緑の木立に囲まれて静かに佇む洒落た洋館が見えてくる。丘の上にひっそりと佇むこの洋館は、かの有名な「山の上ホテル(※2)」である。
漢江を眺める野外ステージで演奏した〝国際JAZZフェスティバル〞

●山の上ホテル
山の上ホテル本館は昭和12(1927)年10月、アメリカ出身の建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計により誕生した。当初は「佐藤新興生活館」と呼ばれ、女性を対象に欧米のマナーやエチケットを教える施設であった。昭和29(1954)年に、創業者の故吉田俊男が「山の上ホテル」として開業した。


 このホテルは、数多くの作家や文化人が贔屓にするホテルとして知られている。
『鬼平犯科帳』『剣客商売』などの作品を遺した池波正太郎も、創作のためにこのホテルをよく利用したという。ロビーには、池波正太郎の直筆画が飾られていることからも、その愛着ぶりがうかがえる。
故三島由紀夫もこのホテルを「願わくば、ここが有名になりすぎたり、はやりすぎたりしませんように」と綴っている。このホテルには大型ホテルとは違った手作りの温もりがある。
 山の上ホテルの歴史はなかなか興味深い。もともとこの建物は、地域の婦人たちに欧米の生活様式を啓蒙するための施設だった。北九州の石炭王といわれた佐藤慶太郎の投資により建てられた。昭和13(1938)年には帝国海軍に接収され、戦時中は将校の宿舎として使用、戦後は米軍に接収され、陸軍婦人部隊の宿舎として使われた。山の上ホテルとして開業したのは、昭和29(1954)年のことである。週末、ホテルの界隈を歩いていると、どこからか賛美歌の合唱とそれに続いて拍手が聞こえてくることがある。山の上ホテルで結婚式が行なわれているのだ。
原田 山の上ホテルは僕の青春だったね。かつて長距離恋愛をしていた時に、ずいぶん利用させていただきました。


●本館ロビー
山の上ホテルは執筆活動の場として多くの文豪たちに親しまれてきた。ロビーには池波正太郎自筆の絵が飾られている。
今でも山の上ホテルと聞くと、当時の思い出が、映画みたいにフラッシュバックします。
五十嵐 そういう経験は貴重だよね。演奏する時もそういう情熱が微妙に影響するんだよね、きっと。

 本館地階にあるステンドグラスの洒落たエントランスの扉を開けると「葡萄酒ぐらモンカーヴ」というバーがある。世界中から集めたワインの逸品があるバーとして有名だ。ワイン好きのご両人に合わせて、最初の1本目のワインは、ボルドーの赤ワインを注文した。
五十嵐 俺とター坊(原田氏の愛称)は長い付き合いになるけれど、きっかけはなんだろうね。
原田 家がご近所だったということが幸いしたのでしょうか。
ワインの美味しいバーで、古き良き時代の思い出話に酔いしれる。
原田 僕がウエストライナーズに移籍した頃だから昭和33、4年頃ですね。神戸で仕事を終えた後、今のように新幹線がないので、夜中に神戸から寝台列車に乗り込むと朝方東京に着つくんです。このホテルに入ると心身ともにリラックスして疲れがとれたものです。ホテルを出る時には不思議と活力が沸いてくるような感覚がありました。
五十嵐 僕らはある意味でシャイだったし、純情だったし、不良じゃなかったよね(笑)。


●葡萄酒ぐらモンカーヴ
世界中のワインが楽しめるワインバー。レトロで重厚な雰囲気で心地良い空間だ。
五十嵐 知り合ったのはバンドボーイの頃だったかな。初めは互いに顔を知っている程度だったけれど、交流が深まったのはプレーヤーになってからだね。ウエストライナーズ時代から一緒に仕事をするようになって、ター坊がよく仕事場まで一緒に乗せていってくれたね。

原田 戦後の横浜には米軍が駐留していたことがあって、兵隊さんの数がすごく多かった。
進駐軍の影響を受けた戦後のジャズ。夜を徹して演奏した「モカンボ・セッション」。

●五十嵐明要氏と原田忠幸氏が一緒に活動した「ウエストライナーズ」
左から(敬称略)、五十嵐武要(ドラム)、原田忠幸(バリトンサックス)、今泉俊明(トランペット)、五十嵐明要(アルトサックス)、金井英人(ベース)、西條孝之介(テナーサックス)、前田憲男(ピアノ)。


●クラリネットを吹いていたバンドボーイの頃の原田氏。
だから関内や伊勢佐木町には米軍向けのジャズクラブがいくつもありました。昭和29(1954)年頃、伊勢佐木町二丁目のクラブ「モカンボ」で行なわれていた「モカンボ・セッション」では朝まで演奏していましたね。五十嵐さんが演奏していたのを僕はずっと見ていましたから。その頃の五十嵐さんは大先輩で、気軽に話すことなんてとてもできなかったですよ。
五十嵐 当時は先輩か後輩かなんてわからないですよ。横浜の桜木町あたりでター坊が歩いていたりすると、「ちょっとお茶でも飲もうよ」なんて気軽に誘ったよね。
原田 五十嵐さんがモカンボでジャム・セッションをやっている時は、僕はまだバンドボーイの頃だったから、お店にうまく入ってお金を払わずに見ていました。モカンボにはそれこそ何回も足を運んで、夜通しのセッションを満喫しました。

―モカンボ時代は熱かったのですね。ハナ肇、植木等、桜井センリがクレージー・キャッツを結成したのもその頃ですね。

五十嵐 ハナちゃんは話がうまいから、モカンボを仕切ってやっていましたね。でもプレーヤーとしては、僕たちと一緒に演奏はしなかったような気がするね。あの頃は若かったということもあるけど、朝まで演奏しても辛いということはなくて、楽しくて仕方なかったね。
原田 僕はまだバンドボーイの駆け出しの頃ですから、まだジャズというものがよくわからなかったわけです。でも最初から一流のミュージシャンたちの演奏を聴いたおかげで、ジャズの素晴らしさが早くわかったような気がします。

―昭和29年に『THE HISTORICMOCAMBO SESSION'54』のLPが発売されました。

五十嵐 懐かしいね。メンバーはピアノが守安祥太郎、秋吉敏子、ハンプトン・ホース、テナーサックスが宮沢彰、アルトサックスが僕と渡辺明、鈴木寿夫、渡辺貞夫、海老原啓一郎、ベースが滝本達郎、ドラムが兄貴の五十嵐武要、清水潤だったね。アルトサックス奏者が4人いて、リレー競走みたいに次々にバトンを渡すように演奏を回していくのです。守安さんが最後にピアノを弾いて曲を締めるんだよね。

原田 渡辺貞夫さんが五十嵐さんのアルトサックスを聴いて、アルトサックスを始めたというのは有名な話です。渡辺さんは宇都宮から上京して、五十嵐さんの演奏を聴いたらしいです。モカンボで五十嵐さんと渡辺さんが一緒に演奏していたとすると、五十嵐さんの演奏を聴いたのはモカンボの前になりますか。
五十嵐 渡辺さんは昭和26年に上京してきたと聞いているけど、最初彼はクラリネットを吹いていました。モカンボの前に、僕は渋谷にあった外国人クラブで演奏をしていました。グラマシーの浅野さんや田辺さんなどと一緒に夜中に集まってセッションをしていました。渡辺さんとはその頃に知り合いました。


―五十嵐さんは当時のメンバーで誰が印象に残っていますか?
五十嵐 ピアニストの守安祥太郎さんです。僕が今まで生きてきた歴史の中であんなに素晴らしい演奏家はいなかった。あの熱っぽいピアノが最高だったね。クライマックスになると、ピアノ線が真っ赤になった電気ストーブのニクロム線のように感じられて、すごい迫力だったよね。
原田 守安さんが早くして亡くなったのは残念でした。僕もあと数年早く生まれていればもっと演奏を聴けたのにと思うと残念です。ただ僕が横浜・元町にある「クリフサイド・クラブ」に半年程お世話になった時に、守安さんがひょっこり現れたんです。
演奏は迫力がありますが、守安さんの風貌は逆にすごくクールなイメージでしたね。
五十嵐 演奏もプライベートも、ミュージシャンらしい自由奔放な生き方をしていた人だったね。日本の歴代のピアニストの中で、ター坊の印象に残っているプレーヤーは誰?

影響を受けた個性的な名プレーヤー。


昭和30年代のジャズの思い出話に花が咲いた。
原田 ピアニストで挙げると、僕と同じ時代に活躍されていた秋吉敏子さんでしょうか。当時女性ピアニストはいませんでしたから、女性のピアニストがいるのだとびっくりしました。秋吉さんは今でも活躍されていますが、昔からエネルギッシュな方ですね。
五十嵐 守安さんが秋吉さんのピアノを聴いて、「この人のピアノは、自己のスタイルが確立していて、ピアノを弾いていてすべての音に無駄がない」と言わせた人だったね。「自分の次に来るとしたら秋吉さんだ」とも言っていたね。

 山の上ホテルから明治大学の脇の坂道を下っていくと、再び明大通りに出る。杏雲堂病院前の道を入り、日本大学病院のほうに歩いていくと、突然異国に迷い込んだかと錯覚するような巨大なビザンチン様式の教会が現れる。この建物が御茶の水のシンボル的な存在、ニコライ堂(※3)だ。現在の建物は関東大震災後に建て直されたものである。ニコライの名は、文久元(1881)年にロシアから伝道のために来日した聖ニコライ大主教に由来する。この建物が、昭和37(1962)年に国の重要文化財に指定されたことを知っている人は意外に少ないかもしれない。ニコライ堂は、御茶の水を訪れる人にとって、ちょっとした観光スポットになっている。しかし、多くの信徒たちにとっては、日々の祈りの場であり、洗礼や結婚など生涯の儀式を行なう場として生活に密着した祈りの家なのである。
御茶の水のシンボル「ニコライ堂」。高さ35メートル、日本最大級のビザンチン建築に圧倒される。

●日本ハリストス正教会東京復活大聖堂
「ニコライ堂」の名で知られる東京復活大聖堂は、明治17(1884)年から7年の歳月をかけて明治24(1891)年に完成。
建築家ミハイル・シチュールポフ氏、およびジョサイア・コンドル博士の設計のもとで建てられた。



 ドーム型の鐘楼は、毎週日曜日と大きな宗教行事のときに荘厳に鳴り響く。堂内を拝観すれば、信徒でなくても自然と厳かな気分になってくる。ふたりはニコライ堂を背にして、本日最後の店、明大通り沿いにあるジャズハウス「NARU(※4)」へ向かう。狭い店内だが、大きなグランドピアノがカウンターバーになっている洒落たつくりである。偶然にも、今宵のゲストに仕事仲間のキャロル山崎さんが唄っていた。しばしジャズライブを聴きながら、ジャズ談義で締めることにした。

―五十嵐さんのアルトサックスは、その温かい人柄が音に出ているような気がします。
知る人ぞ知るジャズハウス「NARU」。ジャズライブを聴きながら、ジャズを語る。

五十嵐 ター坊が吹いているバリトンサックスという楽器は、非常にマイナーな楽器なんだよね。スウィング・ジャーナル誌でも「その他の楽器」として扱われているくらいだからね。サックスは、アルトがあって、テナーがあって、バリトンがある。オーケストラで言えばビオラ、チェロ、ベースがあって、バリトンは、低音が響くコントラバスみたいなもの。最初はセッションで足りない部分の低音を出す役目だったわけです。
アドリブでは、自分の音色に酔うこともある。
原田 五十嵐さんには持って生まれた音程の良さがあります。才能プラス努力なのでしょうが、音色、音程が桁はずれに素晴らしいです。周りのプレーヤーに影響されないところもすごいです。
五十嵐 ありがとう(笑)。ジャズも最初は音合わせをしますけど、始まってしまったら、アドリブで好きなように演奏できるところが醍醐味ですね。
原田 五十嵐さんのアルトサックスは、ほとんどセクハラですよ(笑)。女性を酔わすような、時には女性を狂わせてしまうような音を出します。その円熟味のあるプレーと音色が、アメリカでも〝ONE ANDONLY〞と称される所以でしょうね。

しかし、僕の知っている限りでは、アメリカのジェリー・マリガンという人が、バリトンサックスを完全なソロ楽器として確立し、偉大な功績を残しました。日本のビッグバンドで初めて採用されたバリトンサックス奏者として、ター坊は貴重なアーティストになるわけです。
原田 原信夫さんのシャープスアンドフラッツに入団し、初めてバリトンサックスを吹くことになりました。アルトサックスとテナーサックスがふたりずつで、バリトンサックスが僕1人の編成でした。僕は楽器の音を出すだけで精一杯ですから、演奏していても実につまらない。


でも、演奏しているうちにバリトンサックスの良さがわかってきてからは面白くなりました。
五十嵐 バリトンの低音が入ることによって、セッションとして幅が出てくるわけです。
原田 五十嵐さんのお兄様(故五十嵐武要氏)は素晴らしいドラマーでしたね。
五十嵐 シンバルのタイミングの良さにかけては抜群でしたね。兄貴のドラムを叩く格好も良かったね。演奏する格好がいいとお客さんの反響にプラスされるような気がする。たとえば、サックスを吹いている時に、完全に自分の音色に酔っちゃうことって、ター坊にも経験あるでしょ。
原田 僕は演奏中に自己陶酔することは一度もないですよ。まあまあ上手く演奏できたなと満足する時はありますけどね。そんな時でも、満足度は7~8割。完璧な演奏だったということは今まで一度もないです。
五十嵐 僕の場合は、いいか悪いかは別として、サックスを吹いている時に自己陶酔してしまう時がある。自分だけの世界に入ってしまって、周囲のことが全く気にならなくなってしまう。僕たちは、今日これだけ上手く演奏したからお金をたくさんもらえるとか、逆にダメだったからお金をもらえないという世界じゃないから、ある意味、非常に自由なのかもしれないね。

―五十嵐さんと原田さんにとって、日本の女性シンガーの中でベストワンはどなたですか。

原田 ジャズに限らないけれど、伊東ゆかりさんと森山良子さんでしょうね。ふたりとも、唄い方、声、スタイルは全然違うのですが、非常にうまいです。ゆかりちゃんは寡黙で、良子ちゃんは明るくて、ふたりとも人柄も素晴らしいですね。
五十嵐 時代的にちょっと外れちゃうけれど、いまだに聴いて、やっぱりすごいなと思う人は、ナンシー梅木さん。

昭和33年頃からウエストライナーズで一緒にプレーをするようになった。五十嵐氏と原田氏は公私ともに長い付き合いだ。

原田 数えることができないほどいい曲がたくさんありますから、1曲を挙げるなんてできないですね。ただ、ウインドブレーカーズの20周年のリサイタルで、1曲ずつフィーチャリングした時に、僕は、「ユー・アー・マイ・エブリシング」を演奏しました。
五十嵐 いい曲だね。それにしても外国人は日常的に「ユー・アー・マイ・エブリシング」、「ユー・アー・ソー・ビューティフル」なんて言うからね、うそでもなんでも(笑)。
演奏者もそれを聴く人も一緒に愉しめたら最高だね。
あの人に続く人がいるかなと考えても、すぐには浮かんでこない。それほど、強烈な人だったね。
原田 ナンシー梅木さんは別格ですよね。
1957年、マーロン・ブランド主演の映画『サヨナラ』で高美似子と共にスクリーンデビューし、この映画の演技でアカデミー助演女優賞まで受賞したのですから。
五十嵐 曲によっても雰囲気が変わってくるし、個人的に言えば、いいか悪いかというのは別問題だね。上手いか下手かってことではなくて、その人の個性が自分の好みに合うかどうかだと思う。好きな曲を1曲挙げると、ター坊はなに?

原田 日本人は恥ずかしくて言えないですよ。
五十嵐 仕事で海外に行った時に、英語でちょっと話したりすると、平気でお世辞を言うんだけど(笑)、それに対して、当たり前のように「サンキュー」って返ってくるからすごいよね。
原田 音楽って、好きか嫌いかで選べばいいです。すべての音楽に占めるジャズの割合は5%くらいです。だからジャズプレーヤーが世界で1番の人気者になるなんてまずあり得ない。たとえばアメリカではジョン・コルトレーンとか、ソニー・ロリンズとか、マイルス・デイビスなどが実力のあるプレーヤーだと誰もが知っているかと言えば、アメリカの片田舎に行ったら誰も知らない。だから平均すると5%くらい。それ以上増えたら、ジャズはもうジャズでなくなってしまう気がします。
五十嵐 僕たちは、そういうマイナーな世界にいるわけだけれど、その中でジョン・コルトレーンなどの名演奏をそこで流したら、感じるやつは絶対に感じるわけだから、我々は聴く人の心に響くような演奏をすればいいんじゃないかな。好きな音楽をやって、演奏者もそれを聴く人も一緒に愉しめたら最高だね。

 一帯が「神田山」と呼ばれ、大名屋敷が広がっていた御茶の水。昔に思いを馳せながら史跡巡りもよし、お気に入りの楽器を求めて楽器店巡りもよし、ちょっと足を伸ばして古本屋巡りもよし、美味しい料理と酒に舌鼓を打つのもよし…。音楽を聴けば、さらに愉しい。魅力たっぷりの御茶の水を散策してみませんか。


原田 僕もバリトンサックスが吹ける限り、演奏していきたいです。好きな仲間たちと好きな曲を演奏できるということに幸せを感じます。五十嵐さん、これからもよろしくお願いします。

お店データ


※1 焼肉ホルモン「モリちゃん」御茶ノ水店
東京都千代田区神田小川町3-10 -11
☎03-5282-4823
営業日/ 月~金 11:30~23:30(L.O. 23:00)
ランチ 11:30 ~16:00
土・日・祝 11:30 ~23:30(L.O. 22:30)
定休日/ 無休
http://www.morichan-yaki29.com/

※2 山の上ホテル
東京都千代田区神田駿河台1-1
☎03-3293-2311(大代表)
http://www.yamanoue-hotel.co.jp

※3 ニコライ堂(東京復活大聖堂教会)
東京都千代田区神田駿河台4-1-3
☎03-3295-6879
e-mail/ocj.tokyo@gmail.com
拝観時間/ ★火曜日~日曜日
夏季(8月を除く4~9月) 13:00~16:00
冬季(10~3月) 13:00~15:30
★月曜日・祝日・8月・年末年始 13:00~17:00
公祈祷/ ★土曜日 18:00~19:30
★日曜日 10:00~12:30

※4 NARU
東京都千代田区神田駿河台2-1 十字屋ビルB1
☎03-3291-2321
http://www.jazz-naru.com/