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年輪を重ねることはそれなりに愉しい人生 VOL.21 バックナンバー

ジャズ生活55年。日本のジャズ界の発展とともに人生を歩んできた。
バリトンサックス奏者 原田 忠幸 氏
現在の日本ジャズ界において貴重なバリトンサックス奏者、原田忠幸氏―。若い時、日本に大きな影響を与えたレイモンド・コンデ氏にクラリネットの手ほどきを受け、戦後、爆発的人気を博したレイモンド・コンデとゲイ・セプテットのもとで修行を積んだ。その後、原信夫とシャープスアンドフラッツへの入団を機にバリトンサックスに転向、2010年にジャズ生活55年目を迎えた。戦後の日本のジャズブームを振り返りながら、ジャズとともに人生を歩んできた原田氏の足跡をうかがった。
原田少年は京都に生まれ、野球に熱中し、周囲にはたくさんのミュージシャンがいた
原田忠幸さん(注@)は、現在日本ジャズ界のバリトンサックスの分野において最高の地位を占められています。現在の主な活躍の場所はどのようなところでしょうか?
原田氏(以下、敬称略):さまざまな場所で演奏をしています。主に前田憲男さんが主宰する「ウィンドブレーカーズ」で仕事をしています。それ以外ではジャズ・ライブハウスやコンサート、またスタジオでレコーディングなどの仕事も手がけています。
(注@)原田忠幸氏。1936年7月30日京都生まれ。父親や兄弟の影響から音楽の世界に入る。「原信夫とシャープスアンドフラッツ」や「ウエストライナーズ」などで活躍。その後渡米、ロサンジェルス、ラスベガスで活動し、1971年から日本に居を構え、自己のグループ「ザ・ハーツ」を結成しつつ、フリーでTV、コンサート、ライブハウスでの演奏と多方面で活躍中である。また、海外アーティストからの信用も厚くフランク・シナトラ、マレーネ・デートリッヒ、フォー・フレッシュメン、サミー・ディヴィスJr.、ライザ・ミネリ、ヘレン・メリル、サリナ・ジョーンズ、ローズマリー・クルーニー、アニタオディなど多くの海外アーティストと共演した。
お生まれは京都なのですね。
原田:ええ、親父(ジミー原田氏注A)の仕事の関係で京都が住まいでした。兄弟で僕だけが京都生まれです。中学を卒業するまで、京都で過ごしています。今でも、当時の友達と交友が続いています。その後は、横浜に移り住んで、今は大森が自宅です。
(注A)原田さんの父親はドラマーのジミー原田さん(本名:原田譲二)(1911〜1995年)。戦前に京都で自楽団を持ち、関西圏で人気を博した。戦後、上京して各方面で活躍、後年「ジミー原田&オールドボーイズ」を編成、人気バンドになった。長兄はドラマーの原田イサムさん。現在も現役としてライブハウスやコンサートに出演、精力的な活動を行なっている。
子供の頃の話をうかがいます。子供心にもミュージシャンを目指していたのですか。
原田:とんでもない。子供の頃は野球、野球で過ごしました。できれば野球選手になるのが夢でした。それが、戦後父の仕事の都合で上京することになり、そうも言っていられなくなって、音楽の道を歩むことになったのです。京都時代、家に親父のバンドメンバーが多く居候していました。環境がそうですから、ミュージシャンになるのは、自然といえば自然なスタートでした。
 僕の父は英国人でしたから、僕たち兄弟は子供の頃、よく意地悪やいじめに遇いました。仲間はずれになることもあって、楽器をいじることができたのは、ある意味幸いでした。音楽があったからこそ、変な道に進むことは避けられました(笑)。

戦後の混乱期からスタートしたミュージシャン人生

ジャズの道に入ったとき、父上であるジミーさんのアドバイスや指導があったのでしょうか。
最初の楽器は父親が買ってくれたクラリネットだった。当時人気を博したレイモンド・コンデ氏の手ほどきを受けた。
原田:影響とかアドバイスは全く受けていませんね。何をしようが干渉しない父で、自分のことは自分で責任をもって解決する、というのが主義でした。主義といったら格好よいのですが、無責任だったと言えないこともありません(笑)。ただ、当時ミュージシャンの世界ではいい加減な人や、自堕落な人も結構多かったのです。
 しかし父は、社会的にはとても硬い面がありましたね。だから当時も人気があったパチンコや、賭け事は一切やりませんでした。面白い話があります。一度「パチンコに行ってきた」というから、何故と聞いたら、「タバコ屋がなくて、パチンコ玉を買ってタバコと交換してきた」と(笑)。僕は父の仕事に対する厳しさとか、誠実さは常に目にしていました。父の背中を見て育ちました。
音楽人生のスタート時、楽器は何を選んだのですか。
原田:中学を卒業すると、親父がクラリネットを買ってくれたのです。父の仕事の関係で、手ほどきは当時人気絶調だったレイモンド・コンデ(注B)さんに教わりました。厳しい指導でした。その縁でゲイ・セプテットのバンドボーイをやりながら、先輩たちのテクニックを学んでいきました。その頃のレイモンド・コンデさんのゲイ・セプテットの人気は爆発的で、それがジャズブームの走りになったのです。2年ほどバンドボーイをやりました。
(注B)レイモンド・コンデ(1916〜2003年)。日本のジャズを育てたといっても良いフィリピン人のクラリネット奏者。コンデ3兄弟(レイモンド・コンデは末弟)は戦前に来日して、戦後も日本のジャズ界に大きな影響と足跡を残した。特にナンシー梅木が専属歌手だったゲイ・セプテットは大人気で、日劇で行なわれた「ゲイ・セプテットを含んだジャズコンサート」では熱狂的なファンが劇場を取り巻いたという伝説がある。
その頃、日本のジャズ界はどうだったのですか?
原田:戦後になってまだ間もなく、ジャズブームになる直前でした。南里文雄とホット・ペッパーズ、渡辺弘とスターダスターズ、ゲイ・クインテットなどがバンドを立ち上げていましたが、一般のジャズメンは仕事も少なく、苦労した時代だったと思います。
 一方、力のある日本のジャズプレーヤーは進駐軍の仕事で一杯でした。毎日、東京駅北口や新宿駅南口に行けばメンバーをアレンジする人が居て、米軍の各方面のクラブに派遣されました。当時はまだ食糧事情も悪く、米軍での仕事はギャラ以外に、コーラやハンバーガーなども食べられて、それなりに恵まれた環境でした。昭和25、6年頃で、その後は空前のジャズブームになっていきました。
当時のヒット曲はどのようでしたか。
原田:戦後間もなくはレス・ブラウンの「センチメンタル・ジャーニー」やドリス・デイの「ボタンとリボン」「アゲイン」や、グレン・ミラーの「茶色の小瓶」「ムーンライト・セレナーデ」やベニー・グッドマンの「レッツ・ダンス」「グッドバイ」などダンスブームもあって、大変な人気でした。ダンスホールはどこも満員で、フルバンドはひっぱりだこ。お蔭様で僕も横浜の「クリフサイド・クラブ」などで演奏するようになりました。その頃はアルト・サックスを吹いていました。

〈写真左〉クリフサイド・クラブで演奏していた頃、楽屋で練習をする原田氏。この頃はアルトサックスを吹いていた。
昭和30(1955)年に「シャープスアンドフラッツ」に入団されましたね。どういういきさつがあったのでしょうか。また、その頃からバリトンサックスを吹くようになったのですね。
原田:東京丸の内の米軍のバンカスクラブに、コンデさんのバンドが出演していました。原信夫さんは昭和26年にシャープスアンドフラッツを立ち上げ、原さんもそのクラブで演奏していて、控え室が一緒だったものですから、そこで知り合いになりました。僕はコンデさんのバンドボーイを辞めた後、いくつかのバンドで活動していましたが、ある日、偶然にも原さんと電車の中で再会したのです。そこで、「うちのバンドでバリトンサックスで来ないか」と原さんに誘われて、僕はシャープスアンドフラッツに入団しました。
 原信夫とシャープスアンドフラッツは日本で大人気のビッグバンドでした。日本で初めてバリトンサックスを採用することになって、僕がやることになったのです。しかし、僕はバリトンサックスを持っていなかったので、原さんがどこからか借りてきてくださいました。最初は手本もなく、音が出なくて苦労しました。使えるようになると、その面白さが分かってきました。
 バリトンサックスが入ると、フルバンドの音が全然違ってきます。なんと言うか、音に厚みが出てくるんですね。それ以降、バリトンサックス一本、ほとんど独学でやってきました。シャープス時代、江利チエミさんのバック演奏をよくやった思い出があります。シャープスアンドフラッツには2年弱お世話になりました。
昭和30 年、シャープスアンドフラッツに入団した(19 歳)。前列左から2 番目が原田氏。入団を機に、バリトンサックスに転向した。

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