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そしてウエストライナーズに行かれ、才能が開花されたわけですね。
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原田:昭和32年に「ウエストライナーズ」に入団しました。「ウエストライナーズ」はスタン・ゲッツ、リー・コニッツなどの白人サックス奏者などのスタイル、ウエスト・コースト系の音を目指して立ち上げたバンドです。この前身は高見健三さんが率いる「ミッドナイトサンズ」でしたが、事情があってリーダーが西條孝之介さんに代わって、3管編成で再編成されたバンドでした。当時のメンバーは(故)五十嵐武要さん(D)、五十嵐明要さん(AS)、前田憲男さん(P)、福原彰さん(TP)、金井秀人さん(B)、そしてリーダーが西條孝之介さん(TS)と錚々たるメンバーでした。全アレンジは前田さんがして、毎日のように曲数が増えていきました。数年後、「猪俣猛とウエストライナーズ」になりました。

〈写真左〉昭和32年にウエストライナーズに入団(21歳)。左から(敬称略)、五十嵐武要(ドラム)、原田忠幸(バリトンサックス)、今泉俊明(トランペット)、五十嵐明要(アルトサックス)、金井英人(ベース)、西條孝之介(テナーサックス)、前田憲男(ピアノ)。
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〈写真右〉ドラマーが猪俣猛さんに代わって、「猪俣猛とウエストライナーズ」となった。
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今年の1月に秋吉敏子さんのCD「TOSHIKO & MODERN JAZZ(トシコ&モダン・ジャズ)」が発売されましたね。
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日本のトップ・ミュージシャンたちを率い、秋吉敏子がモダン・ジャズの新しい形を意欲作。昭和39年にTBSホールにて録音された。
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原田:そのCDは昭和39(1964)年に演奏したものを再リリースしたものです。ちょうど東京オリンピックの年で、僕が28歳の時です。その頃はジャズ・アーティストの来日がピークを迎えていました。秋吉敏子さんは当時、元夫のチャーリー・マリアーノさん(アルトサックス奏者)と東京とニューヨークを行ったり来たりしていて、有名なベースのポール・チェンバースやドラムのジミーコブと一緒にTBSホールでオーケストラをやろうということになったのです。
その頃僕はバリトンサックス奏者として、秋吉さんのリハーサルバンドをしていたので、松本英彦さん(TS)、宮沢昭さん(TS)、岡崎広志さん(AS)、鈴木重男さん(AS)、伏見哲夫さん(TP)、日野皓正さん(TP)、鈴木弘さん(TB)など当時の日本を代表するジャズメンで編成されたオールスター・ビッグバンドのメンバーとして参加しました。1曲は秋吉さんの作曲ですが、他はすべてチャーリー・マリアーノさんの作曲・アレンジによるものです。もう40年以上も前になりますが、難しかったのを憶えています。昔のジャケットならもっと良かったのに…。

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原田さんのプロフィールを拝見しますと、スウィング・ジャーナル誌の読者人気投票では、「その他の楽器」部門で常に上位にランクされています。
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迎賓館の前で当時のメンバーと。左から(敬称略)、今泉俊明(トランペット)、原田忠幸(バリトンサックス)、西條孝之介(テナーサックス)、五十嵐明要(アルトサックス)。
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原田:そうですね。あの頃はまだ若かったせいか、いくら吹いていても疲れることを知らなかった。バンドの雰囲気も良かったですし、常に先取りの精神というか、研究熱心な先輩たちに囲まれていて、充実していた時期でもありました。しかし、僕と前田さんが一緒にウエストライナーズをやめることになりました。昭和41(1966)年8月のことです。
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そして、アメリカに。動機はなんだったのですか。
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原田:やめた翌月に渡米をしたのですが、野球選手がメジャーに挑戦したいのと同じような気持ちがあったのと、当時の恋人(雪村いづみさん) がアメリカで唄いたいという夢があって、その実現のため同行したのです。しかし厳しいアメリカの音楽産業のなかで、仕事を見つけるのは本当に大変なことでした。ハリウッドの組合だけで、サックスプレーヤーが5千名近く登録されているのですから。そのうち音楽で食べていけるのは100人くらいの世界です。だから当初、仕事を得るのは至難の業でした。
その時、手助けをしてくれたのは人気女優のシャーリー・マクレーンさんでした。L.A.のサンタモニカにアパートを借りていたのですが、シャーリー・マクレーンさんには公私とも大変お世話になりましたね。毎週のようにお邪魔して、娘をプールで遊ばせながら手伝いもしました。
マクレーンさんの自宅で一番驚いたのは、正餐(ディナー)でした。個人の家でこんな豪華なディナーがあるなんて、本当のセレブな生活というのはこういうものなのかと度肝を抜かれる思いでした。家内もマクレーンさんのお陰で、アメリカの人気テレビーショーに度々招かれ、出演しました。ジョニー・カースン・トゥナイトショー、エド・サリバンショー、ダニー・ケイショー、ダイナ・ショアショー、マイク・ダグラスショーなどです。多分、アメリカのショーに出演した日本人歌手では一番多かったのではないでしょうか。
僕は少しずつですが人脈もでき、スタジオの仕事を中心にショーや映画音楽の伴奏などの活動をするようになりました。アメリカの音楽産業をみてつくづく感じたのは、スケールの大きさでした。音楽的、技術的落差はもとより、設備の点でも日本と比べ別格というか、その差の大きさを感じないわけにはいきませんでした。
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アメリカでの楽しい思い出にはどんなことがありますか?
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原田:ネバタ州リノでの仕事は、その当時大変有名なシャーターレストランハウスクラブでした。その時のショーは、名作『雨に唄えば』でジーンの相手役になったドナルド・オコーナーさんのショーです。オコーナーさんはダンス・唄・俳優と黄金時代のハリウッドの大スターです。彼とフレッド・アステアー、ジーン・ケリーの3人は今でも伝説になっています。オコーナーさんはとても魅力的な方でした。そのショーに雪村いづみさんはヴォーカリスト、僕は伴奏で出演していました。
ある時、オコーナーさん夫妻とコーラスの人たちに「君たち結婚したの?」と聞かれて、僕たちは「まだです」と答えると、「リノにいる間に結婚式をあげよう」ということになって、オコーナーさん夫妻とコーラスの人たちが立会人になってくださり、無事結婚式を挙げることができました。大感激でした。式の前日に、独身最後の日ということで男性は男性、女性は女性に分かれて、翌日のチャペルの式の時まで隔離するのです。一晩中酒を飲んだり、話をしたりで、翌日の式には僕はまだ酔っていました(笑)。このような結婚式はアメリカ全土のしきたりではないのでしょうが、おかげさまで心温まる貴重な想い出となりました。
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それは思い出に残る結婚式でしたね。
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L.A.の生活は大変だったわけですね。遊びに行ったわけではないのですから。
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原田:そうなんです。かなり大変でした。でも日本から絶えず友達が来ていて、その対応も結構大変でしたね、正直(笑)。アメリカのアパートの一部屋は、日本の倍以上のスペースがあるわけで、友人達は「ター坊はアメリカでよい生活しているんだ。こんな立派なアパートに住んでいるのだから」と思ったようでしたが、実際、それは大変なものでしたよ。人に言えない苦労も結構ありましたよ(笑)。でも、アメリカでの生活は苦労もあったけれど、幸せで楽しいことも沢山あって、良い経験でした。
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その後ラスベガスにも行かれてますね。
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原田:L.A.には1年半ほどでしたか。これ以上、L.A.に居ても仕事が少ないので、知人からのオファーがあってラスベガスに行くことに。さすがにラスベガスはショービジネスの本場です。仕事をするにつれて、プレイヤー、ボーカリストをはじめ知人、友人も次々に増え、その後日本に戻ってからの仕事上でも大きな財産となりました。また、有名歌手やバンドに直接触れましたから、僕自身それらの栄養素をたっぷり吸収できました。日本では絶対に経験できないことですから。
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ラスベガスは良い環境だったとお聞きしましたが、3年後帰国されました。
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原田:そうなんです。アメリカの永住権も取得して、家も購入しました。またハワイでの仕事もありましたし、ラスベガスで腰を落ち着けるつもりでした。しかし、家内の事務所から、帰国要請の連絡が度々はいって、やむなく一時帰国することになったのです。もちろん、もう一度戻るつもりでしたから、家も売却せず知人に管理を頼んでの帰国でした。しかし、帰国したら仕事のオファーが多くて、戻るチャンスを逸してしまったのです。数年後、とうとうハワイで永住権を放棄することになったのは、断腸の思いでしたね。
その後、平成6(1994)年に「猪俣猛オールスターズ」のアメリカ・ニューヨーク公演に参加しました。会場はカーネギーホールとアポロシアターでしたが、久しぶりにアメリカの空気に触れ、懐かしかったですね。